見るべき以上のものを見る時代は傲慢を育む環境か?
今週の静岡大で行う研修の冒頭で、ゲーテの言葉を紹介しようと思っている。
ゲーテの言葉「我々は、知っているものだけを見る」である。
知らないモノは見えないのであるし、気づくことも出来ないのである。
13世紀の科学者は「天動説」・・・だから、空を見ると「天が動く」。
現代の我々は「地動説」・・・だから、空を見ると「地球が動く」。
見るとは知っているものの確認であろうか?
「知る」とは「見る」とは、どのようコトなのであろうか?
ゲーテの技術観の一つとして、眼鏡(望遠鏡や顕微鏡)を通して見る人は、
自分を実際以上に賢いものだと思うとしている。
それは、外的な感覚と、内的な判断力とのバランスが崩れるからだと言っている。
内なる真実と外部からよせられた虚像とを、ある程度一致させるにには、
かなり高度の教養を必要とも言っている。
つまり人間は望遠鏡や顕微鏡によって「見るべき以上のものを見る」ことで
感覚と精神のバランスを崩していく。
以前より自分が賢くなったと思いこみ、知らず知らずのうちに「傲慢な精神」を育てていくという。
情報が天文学的に爆発しているインターネットの世界に囲まれている現在。
「見るべき以上のものを見」
「聞くべき以上のものを聞いて」いることになる。
私たち人間は・・・どんどん「傲慢な精神を育ていく」環境に進んでいくのだろうか?
目の前の、見えているモノに対して「謙虚」である「知恵」は、
Knowing What から Knowing How へ移行することが大切で、
「リアルな目の前」で育まれる。
コミュニュケーション基本は、face to face !
道端の雑草の命の仕組み知る
野鳥の無謀とも思える渡りの現実を知る
そこに、ただあるモノ、あるコトを素直に受入、知ることが「見える」の第一歩かもしれないし、
今を認識することこそが大切である。
※ ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』の技術観